デイヴィッド・トンプソン(David Thompson)ノースカロライナ州立大学

1954年、南部の田舎町、ノースカロライナ州シェルビーで聖職者の親のもと10人兄弟の一人として生まれたデイヴィッド・オニール・トンプソンは、貧しさと差別に喘ぎながらもバスケットボールに熱中する少年時代を過ごし、高校時代には2度の州オールチームに選ばれ、3年生時には最優秀選手を受賞した。

大学は地元のノースカロライナ州立大学に進学。大学でのプレーはデイヴィッド"スカイウォーカー"トンプソンの名を一躍全米に知らしめた。彼はとにかく誰よりも高く宙に舞った。「バスケットボードの上に置いたコインをジャンプして取ることができた」という有名なエピソードが出来たのもこの頃であり、大学1年時には彼の噂を聞きつけたギネスブックがわざわざ大学にやってきて、彼の跳躍力を測定した。その時に出た記録が42インチ(約107cm)で、見事にギネス記録に認定された。その後さらに跳躍力を鍛えたトンプソンは、48インチ(約122cm)にまで数字を伸ばしている[1]。当時のカレッジバスケ(NCAA)は試合中のダンクシュートを禁止しており、その制約を乗り切るために生み出されたのがカリーム・アブドゥル=ジャバーの「スカイフック」だったが、トンプソンもまた彼独自のプレーを編み出している。それは「アリウープ・レーン」と呼ばれるもので、チームメートで共同発案者でもあるモンテ・トウがリング近くに高々とあげたトスをトンプソンが空中で受け取り、そのままリングの中に落とすというものだった。驚異的な身体能力を誇るトンプソンだからできる技であり、このプレーはチームの重要な得点パターンの一つとなり、またこの技術はトンプソンによって広く知られるようになった。なお、大学最後の年、1975年のノースカロライナ大学との試合の後半開始直後に、トンプソンは彼の大学キャリアで唯一のダンクを決めている。得点は認められず、コーチのノーム・スローンの命令でトンプソンはすぐにベンチに下げられたが、客席からは嵐のような喝采が送られた。

当時のNCAAの規定により大学1年時は公式試合に出場できなかったが、大学2年生、1972-73シーズンからいよいよトンプソンの快進撃が始まった。トンプソンはこのシーズン、チームを27戦全勝に導き[2]、1973-74シーズンは全米ランキング1位となった。1974年のACCトーナメント決勝ではランキング4位のメリーランド州立大学とACC史上に残る熱戦を演じ、オーバータイムまでもつれた試合を103-100で制した。その後ノースカロライナ州立大はNCAAトーナメントも勝ち抜いていくが、ランキング4位のメリーランド州立大がNCAAトーナメント本戦に出られないという事態となったため、後にトーナメントの出場枠拡大に繋がっている。当時のカレッジバスケ界は名将ジョン・ウッデン率いるUCLANCAAトーナメント七連覇を達成するなど圧倒的な強さを誇っていたが、ノースカロライナ州立大はそのUCLAとトーナメント準決勝で対決。試合はダブルオーバータイムまで戦うという大激戦となったが、193cmのトンプソンがUCLAのエースで211cmのセンター、ビル・ウォルトンのシュートをブロックし、さらには試合終盤での決定的な場面でウォルトンの上からジャンプシュートを決める[2]などの大活躍を見せ、ノースカロライナ州立大を勝利に導くと共に、10年近くに渡って続いたUCLAによるNCAA支配に終止符を打った。決勝のマーケット大学戦を制したノースカロライナ州立大はNCAAトーナメント初優勝を果たし[2]、トンプソンは大会MVPに選ばれた。1974-75シーズンにはネイスミス賞、アドルフ・ラップ賞など主要個人タイトルをはじめ、様々な賞を総なめにしているズームソルジャー

トンプソンはACC史上最も重要な選手の一人に位置づけられており、2002年のACC50周年記念に発表されたACCバスケットボール選手Top50においてはマイケル・ジョーダンティム・ダンカン、グラント・ヒルら怱々たるメンバーを抑えて1位に選ばれている。また70年代当時ノースカロライナに数いるバスケ少年の一人だったマイケル・ジョーダンは、大学で活躍するトンプソンに強烈な印象を持ったという。ジョーダンは少年時代に憧れたバスケ選手に度々トンプソンの名前を挙げており、2009年にジョーダンが殿堂入りする際にも、プレゼンターにトンプソンを選んだほどである。